私なりのオペラ鑑賞雑記」  

          

1999年4月渋谷オーチャードホールで上演された「トゥーランドット」

オペラは高尚な趣味と言う風評に惑わされ、それに迎合する人が多い所為か、ある種の演出家や舞台美術家は、オペラを見て楽しむ側のためにある事より、自己の芸術性の評判に重心をおく、エリート意識を強く感じるものがあります。現代的な演出を批判するものではありませんが、お金を払って見る側から言わしてもらうなら、それがオペラの本場のスカラ座で上演されたき、ブラーボ、ブラーヴィと評価されるか、ブーイングを浴びるかを自己批判して演出して欲しいのです。オペラの歴史の中には沢山の作品が作られたと思いますが、今、世界で上演されるオペラは、その戯曲や作曲の優秀性を歴史が証明した名作ばかりです。絵画と同じように、誰が見ても心を揺るがすモナリザやゲルニカです。それを演出で駄作にしてしまう事は我慢が出来ません。1999年4月にオーチャードホールで上演された「トゥーランドット」は、思いつきの演出で名作を駄作の茶番にしてしまった典型的なもので、プッチーニの嘆きが聞こえます。満月が明くる日は新月になるとはあきれます。それとも暗黒を表現する月食と言うなら茶番で、満月を出す必要はありません。皇帝は天子様だから、遊園地にあるようなブランコに乗って天井から降りてきて途中で止まるのですか。宙ぶらりんのブランコでぶらぶら揺れながらカラフを見下ろし、「挑戦をやめよ、命を無駄にするな」と、皇帝はカラフを説得するのですが、落ちはしないかと心配で、これでは皇帝の心情が伝わりません。こんな高所で揺れるブランコに乗って、名曲が歌えるのだろうかと歌手に同情してしまいます。最近のドイツオペラを真似て、現代的に演出したと思われますが、ピンは何故赤シャツに黒コートなの、ポンは、かん官を表現したと思われるが、オカマの雰囲気なのは何故。仮にも中国の大臣や高官です、もう少し衣装に工夫をしたらどうだろう。取って付けたような映像の演出はありゃなんですか。トゥーランドット姫は、殺された王子達が死してなお逢いたいと慕う、魅力溢れる姫君です。男が命がけで惚れるトゥーランドット姫の神秘的な魅力の表現が、悲惨な死顔を映像でパッパッと見せるとはあきれます。大国中国の統治を担う、頭脳明晰でこの世の者とは思えぬたぐいまれな美貌の持ち主で、国民が敬愛し自慢に思う若き乙女のトゥーランドット姫が、「3つの謎」の挑発で外敵から国を守る決闘は、まさに、国を懸けた戦争であるのに。それを弁務官は、まるで大学の試合のように、応援団の空手の振りで布告するのです。「ベラボーめ。スカラ座ならブーイングものだ」。トゥーランドットファンの奴がれは、はらわたが煮え繰り返ります。「ベラーボ」と云いたいくらいなのに、観客は、オペラ通を気取って「ブラボー」の連呼ときたもんだ、何たることでしょう。アレーナ・ディ・ヴェローナの「トゥーランドット」の演出と比較すれば一目瞭然の駄作なのに。 (1999年5月)

 

 「私なりのトゥーランドット物語」

 2001年6月30日浅利慶太氏演出ミラノ・スカラ座「トゥーランドット」観劇記へ

 

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