私なりのオペラ鑑賞雑記
「マダム・バタフライ」ドックの大きなクレーンに「ある晴れた日」は泣いている
芸者の蝶々さんはアメリカの軍艦リンカーン号の副官ピンカートンの宴席で蝶が描かれた屏風の前で日本舞踊を踊ったのでしょう。ピンカートンは屏風から抜け出た蝶のように軽やかで可憐に踊る蝶々さんを見て、少年がきれいな蝶を欲しがるように、自分のものにしたいと言う衝動に駆られ、周旋屋のゴローに長崎に滞在する期間だけの現地妻として蝶々さんの斡旋を依頼したのです。明治の初期の長崎が時代背景です。当時のアメリカと日本の貨幣価値は1:50位だと思われます。今で云えば日本の10万円が東南アジアの田舎では500万円位の価値があるようなものです。15歳の蝶々さんにとってはスマートな白い海軍服を着たピンカートンは大金持ちで素敵な憧れの王子様と映ったのです。
蝶々さんは大村地方の武家の娘として育ちましたが、父親がミカドに殉じて切腹してからは、家は没落してしまいした。蝶々さんは芸者に出ましたが、父親から受け継いだ武家の魂は乙女ながら持ち合わせています。アメリカは契約が何よりも優先する契約社会の国ですから、現地妻としての蝶々さんとの契約関係にあったと思われますが、貞女は二夫にまみえずの時代ですから、現地妻として結婚する事の意味が分らない15歳の蝶々さんは、父が切腹に使った「不名誉に生きるより名誉ある死を選べ」と銘がある形見の短刀を持って、憧れの殿様の家に嫁ぐ幸せないっぱいな武家娘の心境でお嫁に行ったのです。
蝶々さんと言う呼び名は、ピンカートンが最初に出会った、きれいで可憐な蝶々にちなみ名付けたのです。ピンカートンは、蝶々さんと結婚するまで、彼女が15歳の乙女である事は知りませんでした。領事はピンカートンの一時の衝動と、可憐な乙女の一途な真剣さに将来を案じ、結婚をやめるように説得しますが、あまりにもきれいな蝶を見つけた少年のように、どうしても欲しい激情は止められません。
蝶々さんはピンカートンとの結婚を決意しキリスト教に改宗して世界を回る軍艦の副官との蜜月は長く続くわけも無く、別れが来ます。出港すればいつ又長崎に寄港するか分りません。コウノトリが子供を作る頃といってピンカートンの乗ったリンカーン号は長崎を出港します。蝶々さんはピンカートンを待ちわびながら長崎湾が見える丘の家から毎日リンカーン号が湾に入ってくるのを見ていました。
ピンカートンが去って3年の歳月が経ちました。人々はもうピンカートンは帰らないから諦めて他の人の所に嫁に行くよう進めます。彼女はピンカートンの帰る日のことを想像して、いじらしいほどの乙女の心情を吐露する名曲「ある晴れた日」は、雲一つ無い青く晴れわたった日、海は青く澄み、長崎湾の沖の遥か遠くの緑に輝く山の谷間から、小さく見える白い船が黒い煙をはいて長崎湾に入ってくる。どきどきするような情景が目に浮かび、名画を見るようです。
長崎は丘の町ですから明治の初期はどこの丘からも長崎湾が見えたのでしょう。長崎湾は遠くの山が両側から湾を挟み、船は山と山の谷間から湾に入ってくるのです。蝶々さんが長崎湾の沖を見つめて歌う三浦環の像があるグラバー邸のあたりは長崎湾の景色が一番きれいに見える場所です。昭和4、50年代に長崎湾の奥まった場所にドックの大きなクレーンが出来てから長崎湾の風景は一変し、とても「ある晴れた日」のすばらしい情景をしのぶことが出来なくなりました。昭和36年に訪れたときのグラバー邸からの長崎湾の美しさはもうありません。世界の「マダム・バタフライ」ファンは美しい長崎湾に憧れ、三浦環が「ある晴れた日」を歌う蝶々さんの銅像のあるグラバー邸を訪れます。自然のすばらしい景観が、ドックの一本の大きなクレーンで失われたことに失望する事は間違いありません。世界を魅了するアリアの中のアリア「ある晴れた日」は泣いています。
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