1997年10月24日 ナポリ        
 
10月24日、ローマ・テルミニ駅、15時57分発、レッジョ・カラブリア行きのインターシティーに乗り、18時にナポリ中央駅に着いた。
 
この列車は、トリノ・ヌオヴァ駅を朝8時50分に始発し、終着のレッジョ・カラブリア駅には23時15分に着くイタリアの北の端から南の端までを走る1日に1本の長距離列車で、ジェノヴァ、東リヴィエラ、チンクエッテレ、ガッラーラ、ピサ、ローマ、ナポリを経由して、イタリア半島の最南端の長靴の爪先の都市レッジョ・カラブリア(サッカーチーム、レッジーナがある町)までをリグーリア海からティレーニア海にかけての海沿いを走る。
 
乗客はナポリより遙か先の方まで行くので、車内は満員の状態であった。
 
駅にはナポリの観光会社に勤める通称ピーノ氏が車で迎に来てくれていて、彼の推薦するVia Catullo 11 Napoliにあるホテルパラディソ(HOTEL PARADISO NAPOLI)に向かった。
 
ナポリは渋滞の街で、駅からホテルまで1時間ほどかかった。
 
ホテルに荷物を置き、サンタ・ルチア港にある海鮮リストランテ「ジ・テレサ」に案内してくれた。
 
ライトアップした美しい卵城を見ながらナポリ流の海鮮料理の夕食を楽しんだ。
 
ここは1920年頃に出来た歴史あるレストランで、ナポリのリッチな婦人達が食事に来ていた。
 
アントニオという給仕長が、名刺と1920年代のメニューを書いたポスターの複製を土産にくれ、甥
が六本木にある「クラブ・リリ」と言うリストランテにいるので尋ねてくれと言うので、尋ねる事を約束した。
 
土産にくれた年代物のポスターはパネルにした。
 
パラディソホテルは、ナポリ湾越しの、卵城の向こう側にヴェスヴィオスが望める高台にあり、窓を開けるとナポリの素晴らしい夜景が見える。
 


      
 
夜明け前に起きて、ヴェスビオスの夜明け前、日の出、早朝の写真を撮った。
 
朝の景色を見て、昭和47年にナポリを訪れたとき、観光バスの運転手が、ナポリで1番の景色だ、と言って止まってくれた景色である事に気付いた。当時は何もない丘であったが今は家が沢山建っていた。
                        (27年前の写真) 
 
1997年10月25日 ナポリ
 
朝食は、素晴らしいナポリ湾の景色を眺めながら食べる幸せを味わった。
 
ピーノ氏は朝10時、ナポリ市街を案内するために車で迎えに来てくれ、最初に、スパッカ・ナポリにあるナポリ考古博物館に行った。
 
イタリア有数の博物館で沢山のギリシャ彫刻やモザイク画、ポンペイやエルコラーノの出土品の数々が展示してあるが、中でもモザイク画のすばらしさと言ったら無い。また、ナポリのヴィーナスと乳房をいっぱいつけた女神像も強烈な印象であった。 
 
昭和47年ポンペイを訪れたとき、遺跡の出土品の中にガラスの花瓶やカップ、手術器具や歯の治療器具、水道の蛇口などが展示してあり、現在使われているものと変わらないのに驚かされたが、それらの展示物が展示してあり、ポンペイからこちらに移されたのだろうと思った。
 
 
博物館を出てスパッカ・ナポリを散策したが、ナポリ・チルドレン達がやたらと手を出して小遣いをせびるので、散策を止め、車で丘の上にある城に行った。
 
 
城の中にカメオを細工している小さな店があった。
 
ここからはナポリ市の全景から、カプリ島まで見渡せる絶景の場所だそうだ。一カ所ナポリには珍しい近代的な黒いビル群の一角があり(真ん中の写真の中央の黒っぽい所)、丹下健三氏の設計であると教えてくれた。ナポリは人口300万人のイタリア第3の大都市である。
 
丘を下り、町中が渋滞するナポリの市街をドライブしながら観光し、海岸通りに出て憧れのサンタ・ルチア港にある卵城を散策した。
 
卵城は港の突堤の先端に建つ、背面を海に、正面を細い桟橋の様な通路にした要塞で、城の中はローマのサンタンジェロ城のように坂道になっており、両脇には牢屋と思われる部屋がいくつもある。
 
坂道の突き当たりから階段を昇って屋上に上がった。17世紀のものと思われる大筒が海に向かって置いてあった。
 
城の入り口の岸壁では地元の人がのべ竿にうきを付けて小魚を釣っていた。
 
夕方の海岸通りを散歩した後、ホテルに帰り、ピーノ氏を食事に招待した。
 
ホテルのレストランでは結婚の披露宴をしていた。
家族や友人達が、陽気にワイングラスを掲げて歌ったり、談笑するなど大騒ぎをしている。
 
レストランのチーフが席にやってきて、騒々しい事を詫びたが、楽しい経験をしたことを喜んでいると伝えると、チーフは嬉しそうに首を傾げて微笑んだ。         
 
1997年10月26日 カプリ島         カプリの写真集   
 
ピーノ氏が企画するカプリ島観光に我々を招待するため、朝9時ホテルへ迎えに来てくれた。
 
10時過ぎ、サンタ・ルチア港の先の王宮の近くにある、シチリア、サルデーニア、カプリなどに行く発着港に着き、大きな建物の中にある乗船券売り場でカプリ島迄の往復乗船券を購入した。
 
船出迄に1時間くらい待ち時間があるので、港内を散策した。                   
カプリ島まではソレント半島を見ながら高速艇で40分位で着く。
 
船尾のオープン席に座り、徐々に遠ざかるヴェスヴィオスに抱かれたナポリの町と、右側にソレントの町を遠望しているうちにカプリの港へ着いた。
 
彼の企画するカプリ島観光の参加者はフランス人と北アフリカ人約20名くらいで、港に着くと、島を巡る小型の貸し切りバスが待っていて、それに乗り込み、港の右側にある高台のアナカプリに向かった。
 
彼はフランス語で観光案内をしていたが何を言っているのか分からない。
 
アナカプリ迄の道のりは、崖を切り開いた、小型の観光バスがやっと通れる程の狭い道で、所々にすれ違い用の道幅を広げたところがある。
 
カーブで崖から転げ落ちるのでは無いかと思うような場所が数カ所あった。
 
アナカプリには15分くらいで着いた。直ぐ、大きなレストランに直行して昼食となった。
 
我々はツアー客ではないので、別メニューである。
 
このレストラン自慢のピッツァ・マルガリータを食べた。トマトソースを塗ってモッツァレラチーズを載せて焼いた極めてシンプルなピッツァだが、実に旨い。
 
マルガリータ王女の宴席でピッツァの競演があり最優秀だったので、女王の名前が付いたらしい。
 

 

 

 
 
アナカプリの自由時間は1時間くらいなので、ロープウェーに乗る時間は無く、港やソレント半島などを見下ろすカプリの美しい景色を楽しんだり、小さな町を散策したり、カプリの特産品やイタリアのブランド品を販売している大きな販売店を見て回わったりした。
 
カプリ製の陶花が有名だと説明してくれたが、重いので、特産品のテラコッタの小さな小鳥の置物を買った。
 
時間が来て、港の向こう側の高台にある絶景の場所、アウグストス公園に向う為、崖の坂道を下った。
 
窓越しの景色は来たときより遙かに美しいが、怖さも倍増する。
 
バスは、港を過ぎて高台にあるケーブルカーの終点のカプリ駅の広場まで行き、そこで降りた。広場から公園までは美しい町並みや土産店が立ち並ぶ。
 
公園に着き、展望台から眺める景色はことのほか美しい。
 
帰りに香水店でカプリの香水とレモンチェッロを買い、青の洞窟に行くためカプリ駅からケーブルカーで港まで降りた。
 
青の洞窟までは港から漁船で行く。青の洞窟は、この辺りの漁師が見つけたものなので、利権は漁民が持っているから漁師の船で行くのだそうだ。
 
洞窟の入り口の脇には、小舟が着く小さな船着き場がある。トンネルが見えるので、アナカプリに行く途中の道へ昇る階段があるのだろう。船着き場には洞窟見物の客が4,5人待っていた。
 
洞窟の入り口近くに小舟が6、7艘待機していた。4,5人単位で漁船からその小舟に乗り移って洞窟に入る。乗り移るときに青の洞窟に入る入場料みたいなものを船頭が徴収する。
 
入り口は極めて狭く、頭をぶつけるので、客は小舟に寝っ転がる。
 
中は薄暗く、洞窟の小さな入り口から入る明かりで、入り口から中程にかけてマリーンブルーの美しい水面が浮かぶ。
 
洞窟を2、3周して洞窟の外に出て、来たときの漁船に乗り移り港に帰った。港までの30分程の船旅では、石灰岩の山肌に建つ美しい別荘群の景色を楽しんだ。
 
青の洞窟の近くには海水浴場があるようで、数年の後、娘が、夏のバカンスでカプリへ海水浴に来たとき、水着を付けたままこの船着き場から小舟に乗って青の洞窟に入り、子供達が洞窟の中で泳いでいたので、若い船頭さんから泳ぐのを薦められ飛び込んだとメールと添付で写真を送ってきたが、暗闇の中に顔だけが映っている写真で、青の洞窟で泳いでいる事が分かる写真ではなかった。
 
 
                               
ナポリ行きの高速船が直ぐ出るという。ミラノへの飛行機便を考えると、次の船では時間的に余裕が無く、港周辺の散策を諦め、ナポリに帰り、空港からミラノ・リナーテ空港に帰った。
 
1997年10月26日、フィレンツェ、ローマ、ナポリまで5泊6日の小旅行が終わり、ミラノに2日間滞在して日本に帰り、1997年10月18日から10月29日のイタリア旅行が終わった。
 
             ポンペイへ