プッチーニ オペラ・フェスティバル
 
                         石 田 眞 一
 
夏には、毎年、プッチーニ・オペラ・フェスティバルがトッレ・デル・ラーゴ・プッチーニの湖畔で開催されると言うことを知り、トッレ・デル・ラーゴが何処にあるか知りたくなり、恐らくプッチーニの生まれ故郷ルッカの近郊だろうと、アリタリア航空東京事務所で貰ったイタリア政府観光局(ENIT)無料発行の「チャオ・イタリア」という観光道路地図(イタリア全土を28分割した128頁75万分の1の地図小冊子)で探したら、リグーリア海沿いのピサとヴィア・レッジョの中間にトッレ・デル・ラーゴ・プッチーニという地名が小さく書いてあり、以前ジェノヴァからピサに行く列車で通った所であることを知りました。
5代続く音楽家の家に生まれたプチーニは、故郷の友人の妻エルヴィーラと激しい恋愛の後、二人は1884年ルッカノ近郊のトッレ・デル・ラーゴ辺りの村に駆け落ちし、二人の子と一緒に暮らし始めました。
そこで「マノン・レスコー」、「ボエーム」を作曲し、1894年頃、トッレ・デル・ラーゴにあるマッサチュッコリ湖畔の塔のある大きな邸宅を購入し、「トスカ」、「マダム・バタフライ」、「西部の娘」を作曲しました。
この邸宅は、現在はプッチーニ記念館になっていて、お孫さんが管理しているそうです。
1902年、友人の死により二人は正式に結婚したのです。
エルヴィーラは激情型の大変嫉妬深い女性であったらしく、浮気なプチーニとの確執はすざましかったと想像できます。
「トスカ」はエルヴィーラを連想しながら作ったのかも知れません。
湖畔の邸から眺める風景は、友人が語った見知らぬ国日本の長崎湾「ある晴れた日」のイメージそのものだったり、毎日のように村人達と好きな鴨撃ちなどを楽しみながら、「西部の娘」の構想を練ったことでしょう。
プッチーニ・オペラ・フェスティバルはトッレ・デル・ラーゴ・プッチーニにあるマッサチュッコリ湖の湖上ステージで開催されます。
湖上ステージで「マダム・バタフライ」が上演される時は、「ある晴れた日」の長崎湾のイメージそのものがステージになると思うと、是非この舞台を見てみたいという衝動に駆られます。
第1次世界大戦が勃発し、静かな湖畔にも軍事工場が出来るなど、住環境が悪くなってしまい、近くのヴィア・レッジョに転居します。
そこで「トゥーランドット」を制作中に喉頭癌に冒され、ブリュッセルの病院で手術し、声を失ってしまいます。放射線治療を受けるのですが1924年66歳の生涯を閉じます。
ベルギー政府はプチーニを国葬にしました。
遺体はトッレ・デル・ラーゴ・プッチーニにあるプッチーニ家の礼拝堂に現在も安置されているそうです。
トゥーランドットのテーマソングは、友人が中国土産に呉れたオルゴールのメロディーを編曲したものだそうです。
先日、中国の視聴覚障害の若い女性雑技団の感動的な「千手観音」のステージをTVで見て、バック音楽が歌劇「トゥーランドット」のメロディーに非常によく似ていましたので、トゥーランドットのテーマソングは中国古来のメロディーであることを実感しました。 (2006.10.15)
 
    プッチーニ(1858年〜1924年)の作曲年譜
 
1858年(年) 生誕
1884年(明治17年)(26歳) トッレ・デル・ラーゴ付近の村に友人の妻と駆け落ち
1890年(明治23年)(32歳) マノン・レスコー
1893年(明治26年)(35歳) ボエーム
1894年(明治27年)(36歳)トッレ・デル・ラーゴのマッサチュッコリ湖畔の邸宅を購入転居
1895年(明治28年)(37歳) トスカ
1902年(明治35年)(44歳) マダム・バタフライ、友人の死去でウルヴィーラと正式に結婚
1907年(明治40年)(49歳) 西部の女
1918年(大正7年) (60歳) ジャンニ・スキッキ
1920年(大正9年) (62歳) トゥーランドットに着手
1924年(大正14年) ベルギーの病院で死去(66歳) ベルギーは国葬にした