初演(1904年2月17日)の「マダム・バタフライ」のエピソード
マノン・レスコー、ボエーム、トスカと名作を矢継ぎ早に発表したプッチーニは、日本の慎ましやかな女性がヨーロッパ貴族の「不名誉に生きるより名誉の死」を選ぶ同質性と異国情緒を題材に、自信に満ちてミラノ・スカラ座の初演(1904年2月17日、明治37年)に望みました。
総練習の時は出演者全員が感動し、批評家は「成功疑いなし」と論評しました。前評判も上々で空前の前売り収入でした。
しかし、開演してみると、観客の反応はとまどいと失笑で始まり、そのうち天井桟敷からのヤジが発端となって、劇場全体が冷笑と、ブーイングに変わり、蝶々さん役のプリマドンナに向かって「蝶々さんは妊娠してるのかい」との品のないヤジのために、泣きながら「ある晴れた日」を歌うなど自信作は惨憺たる結果でした。
公演は初日で中止になりミラノの各紙は「プッチーニの失敗」と書きたてました。プッチーニは、ショックのあまり2週間くらいは自宅に籠りっきりだったそうですが、「必ず代表的なオペラになる」確信はあったようです。
各紙が酷評するなか、「このオペラは世界的な評価を受けるだろう」と書いた新聞が1紙だけあったそうです。以後、プッチーニはスカラ座での公演を許しませんでした。
失敗の原因は、当時のミラノでは、明治初期の日本の置かれた情況、風俗、習慣があまり理解されておらず、観客は、舞台装置や衣裳、ストーリーなどの日本情緒に相当のとまどいがあったと言うことのようです。
事実、大勢のイタリア人歌手達の着付けの悪い着物姿や、周旋屋のゴローが着物の上にモーニングを羽織ってハットを持って登場したり、蝶々さんがピンカートンの手に口づけをすれば、驚きと冷笑が起きるかも知れません。
当時の日本人が外国人への精一杯のサービスは、へつらいと映り、よく説明しなければ、理解出来ないことでしょう。
再演は、数ヶ月後、ミラノ郊外の小さな都市で行われ、成功を博し、時を同じくしてブエノスアイレスでの公演では、プッチーニが舞台でスタンドオベーションを受ける程の大好評、翌年のイギリス・コベントガーデンでの大成功で世界的なオペラと位置づけられました。そして2年後のメトロポリタンでの熱狂的な成功が、名作中の名作と評価されるようになったということです。
ブエノスアイレスの成功は、日本がよく理解されていたからでしょう。風俗習慣の無理解からくるとまどいが、天井桟敷からの痛烈なヤジとなり、名作オペラを無茶苦茶にしてしまった見本のような出来事です。